二極化ブログ

ハブ対マングースみたいな感じで、特性を二極化して戦わせるブログ

私がコンサルタントを嫌いな14の理由

Twitterしてて、「あー、この人は嫌いなタイプだわぁ」と思いながらプロフィール見ると十中八九書いてある「○○コンサルタント」という文字。ああやっぱりか、と唸ってしまいます。

ネット上、特にSNS上にはコンサルタントがごまんといます。いい加減うんざりします。

今回はそんなコンサルタントの特徴を紹介し、それを私が嫌いな理由としたいと思います。

 

アピールがすごい

「自分はすごい」アピールが半端ない。どうでもいい今日食べた料理の写真とかも見せびらかしてくるのでめんどくさい。忙しいアピールもする。承認欲求に飢えている。

実績がない

誰でもコンサルタントと名乗ることができるので、プロフィールにコンサルタントと書いている人はなんの実績も持っていない人が多い。

能力がない

能力がないから「コンサルタント」以外の肩書きを名乗ることができない。たまにウソついて「技術者」とか名乗ってるけど内実はHTMLいじれるだけとかザラ。

アイデアがチープ

アイデアを出すのが好きとか言うけど出すアイデアがいちいちチープ。なぜならビジネス雑誌やビジネス書籍で読みかじったことをそのまま言ってるだけだから。たとえばクリス・アンダーソンの「MAKERS」を読んで「これからの時代は3Dプリンターがきます」とか言ってる。

発言に中身がない

どこかで聞きかじったような言葉をラジオテープのごとく再生するので内容がスッカスカ。本質を理解しようとしない。というか本質を理解する頭がない。なぜならラジオテープだから。

意見を押しつける

コンサルなんて名乗ってるだけなので真面目に問題を解決しようと考えていない。顧客の意見を聞かずにただ自分が正しいと思うことを他人に押しつけるだけ。そうやって相手を屈服させて承認欲求を満たしたいだけ。

人脈のことしか頭にない

人脈が大事とか自分は誰とつながってるとかそういうことで自分の価値観を高めようとするけど自分の技術力を高めたりはしようとしないので人材として使えない。当の本人は「人に使われるのが嫌い」とか言うけど、ただ誰も使いたがらないだけ。能力がないから。

1人では何もできない

技術力はないので1人では何一つとして成し遂げることができない。開き直って「人間は一人ではなにもできない」とか言いだし、結局人とのつながりを重視するようになる。というか、人とつながらないと何もできないのでつながる選択肢しかない。

すぐ会おうとする

話しかけるとすぐ会おうとする。しかも会ってもセミナーに勧誘されたり自分のアピールをされるだけで何も得るものがない。自分がいかに幸せかをアピールして仲間に取り入れようとする宗教勧誘みたいなことを平気でする。

人を食い物にする

セミナーに勧誘したり、チープなアイデアを提案するだけで金を取ろうとする。その点を突っ込んだら「人を幸せにするための仕事」だとか言う。

偽善者

「人の幸せのためにコンサルをする」とか平気な顔して言う。承認欲求に飢えているお前がどうして人の幸せを願うことができようか。そう言うことで自分を認めてもらいたいだけだというのが丸わかりである。

顔写真がうざい

コンサルタントを名乗ってる人はTwitterアイコンを顔写真にしてる確率がすごく高い。ナルシストなんだろうなと思う。キモい。

全然面白くない

「笑顔が大事」「楽しいことが大好き」とか言っときながら言うことが全然面白くない。

平気でフォロー解除する

フォロー数<フォロワー数にするために平気でフォロー解除する。自分のためなら人の不幸なんて気にしない性格がにじみ出ている。そんなのがコンサルタントを名乗っているのだから片腹痛い。

 

たぶん時間をかければもっといっぱいコンサルタントの嫌いな部分があふれてくると思いますがこの辺でやめておきます。

ここまで読んでいただいて反感を持った方もいると思いますがそれもそのはずで、私も別にコンサルタント自体が嫌いなわけではないです。経営のノウハウを持ったコンサルタントは企業には必要不可欠だと思います。しかし、「ただ名乗ってるだけのクズなコンサルタント」がネット上にはあまりにも多く、今回挙げた特徴とはまさにそういうコンサルタントのものです。

たぶんいないと思いますがもしみなさんの周りでこういう特徴のコンサルタントとおつきあいされている人がいるのならば即刻縁を切った方が身のためだと思います。

生きる意味なんて探さない方がいいかもしれない

「生きる意味」ってなんでしょう。なぜ私たちは生きないといけないのでしょうか。

世の中にはこの問題において数々の答えが用意されていますが、そのどれもに明確な根拠はありません。おそらく、分からないまま人生を終えることになると思います。

 

この「生きる意味」を探すことに固執して、結局、本人さえもちゃんと理由が説明できないような迷走した結論に行き着く人がいたりします。一般的に多いのが宗教ではないでしょうか。宗教は生きる意味について説くことが多いです。キリスト教なら、「来世に行くために、この世で良いことをする」、それが生きる意味。仏教なら、「苦しみから抜け出すために徳を積んで解脱する」、それが生きる意味。

宗教が言っていることはすごく立派だし、特に「生きる意味」を探している人にとっては心にズドーンと響くものがあったりします。それこそ、生きることに迷う「迷える子羊」を導くかのようにして宗教がそこに存在します。しかも宗教ってかなり多岐に渡って存在しているから、自分の考えに合った何かしらの宗教が見つかったら「これだっ!」て思っちゃうわけです。

たとえば仏教は、

仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

- Wikipedia

という風に生死観を定義していたりするんですけど、やっぱり偉い人が考えてそれが長い間多くの人の手によって調整されてきたもんだから、人の心をバキューンって打ち抜くレベルの説得力があります。でも、宗教のせいで戦争が起こったり、悪い人がそれを利用して信者から金をむしり取ったりするようなことが起こっているのもまた事実です。

 

別に宗教が悪いってワケではないですし、それが生きる目標になれば自殺する人も減るでしょうし、良いことする人も増えるでしょうから良いことは多いと思います。

ただ、宗教による固定観念のせいで、科学だとか哲学だとか、この世の真実を追究するような考え方ができなくなってしまうのはもったいないなとも思います。

 

神は死にました

そういえば哲学者のニーチェは、「神は死んだ」って言いました。科学の発展により、私たちは宗教を信じなくなってきました。その結果、私たちがこれまで信じていた、得体の知れないものすごい力を持った神という存在が否定されるようになってきました。昔は雷が落ちるのを見て、「雷神様が怒っている」と言ったものですが、今では雷が起こるメカニズムが解明され、「雷神様?プッ」と言われる始末です。雷の解明により雷神様は死にました。

もし私たちの誰一人として雷が落ちる理由を雷神様によるものだと信じて疑わなければ、今の科学の発展はありえなかったわけです。そして、それは今後も同じで、いろいろなよくわからない事象を「神によるもの」と信じてしまうと、科学の進歩は止まってしまうかもしれません。まあそれだって誰か偉い人が勝手に解明してくれますから私たち凡人は宗教に浸っていても問題ないっちゃあ、問題ないですが。

でも、生きる意味を探そうとするぐらいハングリー精神があるんだったら、本当の意味で科学的根拠のある生きる意味、ひいては様々な物事の真実を数学的に解き明かしていくべきなんじゃないでしょうか。もちろん科学もある仮定の上で成り立っているものですからいつか覆される日も来るかも知れませんが、得体の知れない物事について考えて迷走するぐらいなら、科学信者でいたほうがよっぽどまともかもしれません。

 

死後のために生きるのはもったいない

死んだ後に天国へ行くために、今の生き方を決めてしまうのはなんだかもったいない気がしませんか。あるかもないかも分からない死後のために、今確実に存在している自分を否定することはバカらしいというか、生きることを侮辱しているような気もします。

きっと私たちが生きている間に「生きる意味」が解明されることはないでしょう。だからとりあえず「生きる意味」を探すのはあきらめて、今を精一杯生きていくことが大事なのだと思います。

ただ、一応注意しておいた方がいいのは「生きる意味なんてない」と考えてしまわないことです。無気力になってしまいます。私たちが生きる意味はいずれきっと見つかるはずです。それにはただ長い年月が必要なのです。なので今は、今分からないことを少しずつ解明していくことが大事なのではないでしょうか。

 

と、私は思ったりしているわけです。

だから知りたいことがいっぱいあるし、それを知るために努力をしたいです。生きる意味は見つからずに死ぬと思いますが、それでも後世に貢献できるようなはたらきができればいいなと思っています。そしていつの日か、真実が解明されてどえらいことになって欲しいな、と思っています。

 

でもやっぱり死にたくないな~

ぼくのかんがえたさいきょうのじんせい

あくまで私の主観的人生論。

深夜はいろいろとネガティブな考えが横行するので気のままに書いてみよう。

 

幸せを求めるのが人生ではない

これはきっとそう。

幸せは長続きしないし、追いかけてもキリがない。追いかけた末に気づけば後戻りできなくなっていて、くだらない人生だったと思いながら死ぬ可能性が高い。幸せなんてその場しのぎのもので、後に残るようなもんではない。

そもそも、最高の幸せの感覚を味わえるのがヘロインという麻薬な時点で、大きな幸せなんてロクなもんじゃないというのが分かる。たとえ身体的依存性も副作用もない、ただ大きな幸せが感じられる薬がこの世にあったとしても、それを飲み続ける人生が最高の人生だとは到底思えない。

幸せはあくまでも人生におけるオアシスであって、ゴールではない。

そこを勘違いしてしまうと、何かに依存した人生を送ってしまいそう。

 

終わりがないのが人生

やなせたかしさんは死ぬまで現役でアンパンマンを書き続けた。テレビの取材中に「まだ死にたくねぇ。面白いところに来たのに俺は。何で死ななきゃならないんだよ」と発言していたのがすごく印象的だった。

幸せな家族に囲まれて死にたい、とか、多くの人は最高の人生の終わりを夢見てその準備に取りかかろうとしたりする。でもそれは、終わり方を決めている時点で人生を諦めているようなものだと思う。死に向けて準備しているだけで、その実は自殺となんら代わりがないように思う。

そういう観点から見ると、「死後のために云々」といった宗教も、人生を軽んじているように思えるので私は好きではない。(これはニーチェも言ってたような気がする)

やなせたかしさんは死を考えるものの、自分のやっていることに見切りをつけることはなかった。死ぬまで人生を歩み続けた。やなせたかしさんの人生には、終わりがなかった。

 

自己実現理論

人には5段階の欲求があって、下の段階の欲求から解決していくことで最終的には自己実現の欲求を満たすために生きる。というのが社会心理学アブラハム・マズローの唱えた自己実現理論。

人の欲求は絶えることがなく、自己実現のために絶えず成長していく、という話。

欲求を満たしたってそれほど幸せになるわけではない。だけど心の奥底からわき上がる謎の欲求を満たすことに私たちは必死になる。必死になって満たしたけど、そんなに幸せを感じられるわけでもなく、しかもさらに上の欲求がまた心の奥底からわき上がるので嫌になる。もういっそ、諦めてしまおう、なんて思ったりもする。

欲求を満たすことを諦めて、ただ毎日を漠然と過ごす人たちは多い。美味しい食べ物やギャンブルやゲームやセックスや睡眠などの手軽な幸せを消費して、死の準備をする人が多い。必死でがんばってる人をバカにして貶して足を引っ張ってまで自分を正当化して、「人生はそんなもんだ」と諦める人が多い。

私はそんな人生を送りたくはないと思っている。

 

成長し続けるだけの人生

わき上がる欲求を満たし続けて、成長し続けるだけの人生。そこに終わりはなく大した幸せもなく、諦めもない。

だけどたまにオアシスで疲れた体を癒したりもする。そしてまた走り続ける。

私はそんな人生がいい。死にたくない。

引き寄せの法則は確証バイアスです

思考は実現するという、引き寄せの法則ってありますが、私はこれをただの確証バイアスだと考えています。

 

確証バイアス

確証バイアス(かくしょうバイアス英: Confirmation bias)とは社会心理学における用語で、個人の先入観に基づいて他者を観察し、自分に都合のいい情報だけを集めて、それにより自己の先入観を補強するという現象である。 -wikipedia

たとえば、ツイてないときにコインを投げて表か裏かを確かめるとしますよね。今日ツイてないんだよなー、と思いながら投げると、なぜか裏がでやすくなるんです。コインで裏が出る確率は1/2だと決まっているんですが、なぜか裏がでやすくなる。

引き寄せの法則引き寄せの法則!思ってたら実現するやつ!!

 と、いう人もいますが私は確証バイアスだと思っています。

確証バイアスとは、先入観でものごとを見てしまうとその先入観で都合のいい事実だけを強く認知してしまうという心理現象のことです。

ツイてないときは、「ツイてないからコインも裏が出やすいかもなぁ」と考えてしまいがちです。そんなときにコインを投げると、裏の時は「ほら見ろ裏がでたうわーーーん!!!!」と感情が高ぶるのに対して、表の時は「ふーん」ぐらいになってしまいます。

たとえコインで裏の出る確率が1/2だとしても、「うわああああああーーーー!!!!」と「ふーん」の感情を足し合わせたらどう考えても「うわああああああああーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」になりますよね。そういうこってす。

 

当たったときは記憶に残る

「コインで裏がでるなぁ」と思っているときに裏が出ると「ほらやっぱり!!!」と脳が興奮して記憶に焼き付けようとしますが、表が出ると「ふーん」と脳も特に反応せずに記憶にも残りません。

たとえば「ツイてないなぁ」と思った日にコインを投げる習慣を持っている人がいたら、その人の過去の記憶は「ツイてない日はコインで裏が多く出ていた」というものになります。実際は表が多く出る日もあったはずなのに。そういう考えをこじらせてしまうと、その人はコイン信者になります。

そういえば私は昔、学校でやんちゃな人が暴れていたので「うぜー!あいつ先生に怒られろ!!怒られろ!!怒られろ!!」と念じてたんですね。そしたらその人、先生に見つかって怒られたんですよ。そのとき、私は「あっ、強く念じたからだ!」と思って、その強い印象が今も記憶に残ってるんですね。

でも、それ以降もその事実を信じたもんだから、何度か強く念じたこともあるんですが実現することはありませんでした。失敗するたびに「念じ方が違った」「もっと強く念じないといけない」とか、失敗した理由探しをしたりもしていました。今まじまじと思い返すと、明らかに何度も失敗していたはずなのに、今も強く印象に残っているのは、成功した時の1回なんですよね。

偶然に起こったことでも、それを「自分が原因だ」と考えるといつまでも記憶に残るようです。でも、うまくいかなかったことは都合良く記憶から消されるようです。

 

自ら実現しようとするようになる

一度信じるようになると知らず知らずのうちに自ら実行しようと思うようになります。コイン信者になった人は、ツイていないときは知らず知らずのうちに「裏出ろ!」と願うようになります。

ポジティブなことであれば、いい方向に作用します。「自分は成功する!」と信じれば成功に向けて努力するようになります。「打てる!」と信じればバットにボールを当てられるようになります。ただこれも、いろいろな心理学の実験から「ポジティブシンキングは効果がない」とも言われているので一概には言えませんが。心から信じるのが大事なのかも知れません。

ネガティブなことも自ら実現しようとするので注意が必要です。「この部屋には幽霊がいる!」と思い込んでしまうと、ネズミが天井を走る音や電気ケトルとドライヤーを同時に使ってブレーカーが落ちた時でも「心霊現象だあああああ!!」ととらえてしまう可能性もあります。

 

思い込みは事実をねじ曲げる

確証バイアスという心理現象は事実をねじ曲げます。ぜんぜんイケメンじゃないのに心の底では「イケメンかもしれない」と思っているが故に、他人からのお世辞の「イケメンだね」という発言を過剰に受け取り、「自分はイケメンなんだ!だっていろんな人から言われるんだもん!」(実際はたかが数人)と勘違いしてしまうナルシストさんとか。「あたしはデブなんだ」と思っているが故に鏡の姿の自分がデブに見えてガリッガリになってる美女とか。「パチンコ勝ちまくってるんだよ~」と思ってるけどトータルで見ればクソみたいに負けてるパチンコ中毒の人とか。ポケモン捕まえるときにAボタン連打したら捕まえやすくなるとか。

まあいろいろありますよね。

 

記録すれば分かりやすい

コインの裏が出たときと表が出たときを紙に書いてカウントすれば、おおよそ1/2なんだということが分かります。

でも世の中、いろいろな現象に関していちいち記録なんてしていられないですよね。「イケメンだね」と言われた回数なんて誰が記録するねん、って話ですよ。

そうなると頭の中の記録、すなわち「記憶」だけでものごとを判断するようになるわけですから当然、声の大きい者が勝つというか、記憶に残りやすいものが勝つという不公平な状況で物事の真偽を判断してしまうわけです。

 

ってなわけで

日常生活のなかで「これは確証バイアスかな~」と考えながら行動すると面白いです。オススメ。

笑えないのって感性ズレてるだけだよね

2chのboketeの画像スレまとめとかのコメントで「全然笑えなかった」みたいなこと書いている人がいるけど、そういう人ってみんなが面白くないと思っているような画像で笑ったりして、「あ、こいつ感性ズレてるなー」ってなるよね。

「俺は本当の笑いを分かってる」みたいな物言いでカッコつけてるけど、多くの人が笑っている情況で笑えないっていうのは「空気読めてないなー」としか思えない。まあ別に面白くないのにわざわざ周りに合わせて笑う必要なんてないとは思うけど、それをいちいち「何が面白いのか分からない」みたいに言うのはちょっとイケてない。

それでそいつがやるギャグとか面白いことってすっごい寒くて、そのくせドヤ顔で言うもんだからみんな愛想笑いするしかない。

変な感性持ってる人は適材適所で真価を発揮するけど、笑いの感性に関してはみんなと同じであるほうがメリットは多いような気がする。

とはいっても生まれ持ったものだからどうしようもないんだけど、せめて「俺は笑い分かってる」みたいな態度を改めればいいのに。それでイケダハヤトとかハックルさんみたいに正々堂々としてればそれだけで笑いをとれるのに。

社会人ってどういう人のことをいうのか分からないです

「社会人失格」「社会人としての自覚を持て」「社会人の常識だ」

などなど、私はインターネットなり現実でそういう言葉を聞いてきましたし、学生のころも散々言われてきました。でも、「社会人」ってそもそもなんなんでしょう。みんなは、わかってこの言葉を使ってるんでしょうか。

しゃかい‐じん〔シヤクワイ‐〕【社会人】 

1 実社会で働いている人。学生・生徒などに対していう。「―になる」「―一年生」

2 社会の構成員としての個人。

 

- 引用:デジタル大辞泉

実社会で働いている人、社会の構成員としての個人、ということらしいです。

実社会?社会?そもそも、社会ってどういう意味だっけ。

しゃ‐かい〔‐クワイ〕【社会】  

《英語 society の訳語として「社会」を当てたのは、明治初期の福地桜痴(源一郎)である》

1 人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう。「―に奉仕する」「―参加」「―生活」「国際―」「縦―」

2 人々が生活している、現実の世の中。世間。「―に重きをなす」「―に適応する」「―に出る」

3 ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。「学者の―」「海外の日本人―」「上流―」

4 共同で生活する同種の動物の集まりを1になぞらえていう語。「ライオンの―」

 

5 「社会科」の略。

 

- 引用:デジタル大辞泉

人間の集団としての営みや組織的な営みのことを「社会」というそうで、その構成員を「社会人」というらしいです。

この意味から考えれば、社会で働くことさえできれば立派な「社会人」たりえるのではないでしょうか。なのにどうも「社会人うんぬん」言う人は社会人という存在を実際よりも大きくて偉大な存在だと言わんばかりに学生や新社会人を脅します。

 

社会人基礎力

社会人基礎力(METI/経済産業省)

経済産業省では社会人基礎力という言葉を、「『社会人基礎力』とは、経済産業省が提唱する『職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力』をあらわす概念です。」として定義し、社会人の育成を行っています。

about社会人基礎力(METI/経済産業省)

 上記リンクに、社会人基礎力とはどんな能力化についての説明が書いてあります。図解してわかりやすく書いてあるので一回見てみてください。

え?何?めんどくさい?

じゃあこっちも書くのめんどくさいけど書きます。

社会人基礎力とは、3つの要素とそれを詳細に分けた12の能力要素からなる力のことです。

前に踏み出す力(アクション)

一歩前に踏み出し、失敗しても粘り強く取り組む力

  • 主体性
    物事に進んで取り組む力
  • 働きかけ力
    他人に働きかけ巻き込む力
  • 実行力
    目的を設定し確実に行動する力

考え抜く力(シンキング)

疑問を持ち、考え抜く力

  • 課題発見力
    現状を分析し目的や課題を明らかにする力
  • 計画力
    課題の解決に向けたプロセスを明らかにし準備する力
  • 創造力
    新しい価値を生み出す力

チームで働く力(チームワーク)

 多様な人々とともに、目標に向けて協力する力

  • 発信力
    自分の意見をわかりやすく伝える力
  • 傾聴力
    相手の意見を丁寧に聴く力
  • 柔軟性
    意見の違いや立場の違いを理解する力
  • 情況把握力
    自分と周囲の人々や物事の関係性を理解する力
  • 規律性
    社会のルールや人との約束を守る力
  • ストレスコントロール力
    ストレスの発生源に対応する力

 

できるか!そんなもん!

 そう、社会人というのは上記要素を全て満たしているような人のことを言うのです。いや、その程度ではまだまだ社会人としては未熟。上記要素を満たすだけではまだ、社会人ピラミッドの最底辺なのです。

「世の中、完璧な人なんていない。人には良いところと悪いところがあって、それをみんなで支え合って生きていくんだ。」なんて綺麗事は社会人の前では通用しません。そんなこと言ったら、「馬鹿野郎、てめえそれでも社会人か。経済産業省の定義する社会人基礎力も身についていないようなヤツが社会に出る資格なんかねえ、小学校からやり直せ」と言われます。

 

社会人という理想像

そもそも、「社会人うんぬん」と学生や新社会人に説教するような人は、社会人基礎力の1つである「柔軟性」が足りていませんし、「社会人」という曖昧なワードを使ってしまっているので「発信力」も足りていません。社会人失格です。

世の中には社会人基礎力を全て満たしているような人が一体どれぐらいいるのでしょうか。おそらく、まったくいないか、いても一握りぐらいでしょう。多くの人は社会人失格です。

自分も社会人になれていないくせに、人に社会人がどうこう言うんです。

そういえば2chでこんなコピペがありましたね。

525 名前:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/21(月) 22:55:22 

俺のいとこも「社会に出たら」病だったんだわ。 

社会人二年生なんだけど、親戚で集まるたびに 

いっつも中学生や高校生の子に言うんだわ。お決まりのフレーズ 

「社会に出たら厳しいんだぞ」「社会じゃ嫌なことたくさんあるんだ」。 

「たまに死にたくなることもあるぞ。絶対厳しい目に会う。100%辛い目に会うんだ」と。 

うん毎回言うね。社会人の俺としては「別にそこまで大変なわけじゃ、、、」状態。 

親戚の人たちにも当然社会人はいるわけで、俺と同じ様子で視線を送ってた。 

言われる子達もリアクションの取り方に困ってんのが一目瞭然なんだわ。 

であんまり度が過ぎるんで、ある時うちの親父がキレちまったわけだ。 

そんな事言い聞かせて脅してどうするんだ、大概にしろ、とこういうわけだ。 

それに同意した親戚の何人かが熱くなってる親父を落ち着かせながらも 

やはり同様のことを諭すように言い聞かせるのだわな。いとこに。 

子達に対しても「こいつが言うほど恐ろしい所じゃないから」 

「○○君(いとこ)の話はちょっと大げさな所があるな」とフォロー入れつつ。 

で、いとこ。社会が、、社会が、、、と涙目でヒックヒック言いながらつぶやき始めた。 

また社会は厳しい談義か?と思ったんだが、泣きながら 

「社会が、、、嫌だ、、、社会から逃げたい、、、山に篭って、、生活したい、、」 

ときたもんだ。 

この時わかったよ。悟ったっつうか。 

こいつ今まで自分に言い聞かせてたんだわ。 

嫌な事が多すぎて言わずにいられなかったんだわな。社会に出たら厳しいと。 

皆何も言えなかった。さっきまでキレてた親父も押し黙ってうつむいてた。 

いとこは極端な例で、こいつ以外にも「社会に出たら厳しい」が口癖の奴が 

たま~にいるんだが、この件以来なんとなくわかった。 

皆、厳しい社会に押しつぶされそうな自分に言い聞かせてるんだわな。 

学生を諭すという形を借りて、必死で自分に言い聞かせてるんだわな。 

最近じゃ会わなくなったけど今何してんのかな、いとこ。 

読みました?え?読んでない?

社会人2年目の親戚が、他の中学生や高校生の親戚に「社会は厳しい」と脅したんだけど実はそいつ自身が社会で嫌な目に遭ってただけだった、っていう話です。

この話から察すれば、普段から上司に「社会人がー、社会人がー」と言われている社会人基礎力不足の新入社員が、自分より下の人間に対して「社会人がー」と言っている可能性が高いですね。

 

曖昧なワードってズルいよね

子どもに対して「大人の味だから子どもには分からない」とか。「最近の若者は」とか。「常識がない」とか。大人ってなんだよ!若者ってなんだよ!常識ってなんだよ!と、言いたくなります。

言ったら言ったで、「そういう所が―」って言われるじゃん。

じゃあお前はどうなんだ、っていう話ですよ。

社会人という言葉も、そういう曖昧でズルいワードですよね。

 

 使いたきゃ使え、ただし覚悟しろ

 

社会人というワードがいかに曖昧で人によって定義が異なるかということが分かりましたが、それでも使いたい人は使えばいいと思います。おおよそ社会人たる資格がない人間を煙に巻くことはできるかもしれません。

ただし「てめーも社会人失格なんだよクズ」と言われる覚悟も持たなければならないし、「社会人とは何か」という、この記事みたいに不毛で中身のない論争に無駄な時間を費やさなければならない可能性にも目を向けた方が良いでしょう。

社会人失格と言っていいのは、言われる覚悟のあるヤツだけだ。

 

社会人なんていない

社会人なんていないともいえるし、いるともいえます。定義が曖昧なので人によって意見は違うでしょう。

定義があいまいなままで「社会人がー、社会人がー」と言うような人はそいつ自身が社会人失格の可能性が大いにありますしロクなヤツじゃないと思うので社会人失格パンチをお見舞いしてあげましょう。

1位になりたい起業家はいつか死ぬ

自信家、正義感、ビッグマウス

そんな起業家的性格の人がメディアに取り沙汰されて、多くの人の憧れになっていたりしている。

いわゆる意識高い系の人はそういう人たちに憧れた結果であると思う。本質は目立ちたがりやで自分に注目してもらいたいと思っている人たち。そのためには手段は選ばない人たち。1番になるためなら危険な橋を渡る人たちである。

1番になるためには危険な橋が危険かどうかをいちいち確かめている時間はない。そんなことをしていたら、ほかの人が先に橋をわたってしまうから。

そうやって壊れそうな橋を見事に走り抜けられた運のいい人が1番になれる。そんな壊れそうな橋レースが日夜繰り広げられていて、メディアは1位になった人を大々的に取り上げる。意識高い系の人たちはみんな、1位になってメディアに取り上げられるために、壊れそうな橋を渡ろうとしている。

壊れそうな橋は当然、壊れることもある。壊れれば谷底へ真っ逆さま。最悪、命を落とすこともありえる。

壊れた橋に落ちた人のことをメディアはわざわざ取り上げない。壊れそうな橋を事前に確かめることなく渡って落ちるなんてことは自業自得だから。そんなバカのことは取り上げない。代わりに「自殺者が増えてきました」というニュースを伝えるだけだ。

だから多くの人は1位になることのリスクの高さにあまり目を向けず、もしくは目を向けるけどそれでも1位になるためには相応のリスクだと考えながら壊れそうな橋を渡ろうとする。

 

壊れそうな橋を運良く渡れた1位の人はその後メディアに取り沙汰され、確信する。俺のやっていることは正しい、と。

そうしてまた壊れそうな橋を渡り続ける。

もちろん、客観的に見ればそんなことをしていたらいつかは谷底に落ちてしまうのは明らかなのに、恋は盲目、成功も盲目、勇み足で橋を渡ろうとする。

そして落ちる。

1位をとって多くの人に持ち上げられた起業家の寿命は短い。

 

厳格なルールが敷かれたスポーツや各種競技とは違い、明確な正攻法、もとい成功法がない起業という戦いの場での1位は運の要素に大きく左右される。1位になれた人が書いた成功本を読んでそれを実践しても、1位にはなれるのはごくごく少数の運のいい人だけだ。むしろそんな人が書いた本を鵜呑みにして行動すると死ぬおそれがある。「危ない橋も気にせず渡ろう」なんて書かれているかもしれないのだから。

 

本当の意味で成功したいのであれば、1位になろうと考えないほうがいいだろう。2位、いやもう20位とかでもいい。何位でもいいから、壊れそうな橋の前ではちゃんと一歩立ち止まって考えられるようになったほうがいい。この橋は危険かどうか。渡ってもいいかどうか。それを見極める知識を蓄える時間も作った方がいい。

時には渡らないことを決断することも必要だ。

 

壊れそうな橋の前でいちいち立ち止まっていたら、行き遅れてしまうこともあるだろうし、注目されることも少ないだろう。しかし、落ちない見込みのある橋を選び、着実にゴールにたどり着くことが落ちない秘訣だ。

 

要は長く生きるか短く生きるかの問題で、どちらが正解なのかなんて人それぞれだ。

でも人生は短いようで長い。どうせ長い人生なのだから、死に急がなくても長いスパンでゆっくりと着実に成功をおさめていこうじゃないか。

死ぬ覚悟で壊れそうな橋を渡って、その結果橋が壊れてしまって、どうしようもなくなって自殺する、なんてもったいない人生を歩む前に、今一度、目の前の橋が安全かどうかを確かめるすべを身につけたほうがいいんじゃないか。